花束を持って咲蘭の仕事場に顔を出したら、ぽかんとした顔で見つめられてしまった。
「誕生日おめでとう、咲蘭。愛してるよ」
 気にせず血の赤みたいに真っ赤なチューリップの花束を差し出す。彼女はわあと声をあげて喜び、
「ありがとう、夏帆」
 と、微笑みながら受け取ってくれた。いつものことだけど、精一杯の愛の告白は届かなかったようだ。無邪気に綺麗ねぇ。かわいいわねえ。と、感想を並べながら喜んでいる。

 4月30日に彼女が産まれ、5月1日にわたしが産まれた。もっと正確にいえば、30日の深夜に咲蘭が産まれ、1日の早朝にわたしが産まれた。4月に産まれたから咲蘭は「さくら」になり、春の次は夏だからという理由で、わたしは「なつほ」になったらしい。一度、何故「ひまわり」にしなかったのかと義母に聞いてみた気がするんだけど、なんて言われたんだっけかな。思い出せない。
 それはともかく、今日まで離れることなく一緒に生きてきた。義母よりも早く長く共に過ごしていることになる。親は違うが、幼馴染というより姉妹と例えられたほうがしっくりくるね。
 咲蘭は鈍感すぎるとみんな言うけど、あまりにも長く一緒にいすぎて恋愛対象には思えないんだろう。さっきの告白も冗談だと受け取られているに違いない。悲しいけれど、だからわたしも小っ恥ずかしい告白を言えるのだ。どっちもどっちだね。
「せっかく誕生日なんだから飲みいこーよ。奢るよ」
「あら、景気がいいわね」
 表情は明るいが、投げやりに言われた。乗り気ではないようだ。咲蘭の机をのぞいてみると、やりかけの書類が結構ある。電気代節約で蛍光灯ひとつ分暗く狭い仕事場には彼女しかいなかった。きっといつも通り定時までに間に合わなかった部下の仕事を、代わりにやっているんだろう。ムカムカする。
「今日も残業? 誕生日なのに」
「そんなの関係ないわよ」
「あるだろ。今やってるの、あんたの仕事じゃなくて片瀬や、えーと、誰だっけ。……ともかく部下の分でしょ」
 咲蘭は、小さく頷く。
「咲蘭がやることないじゃん」
「ここの責任者は私よ。結局、チェックの関係で残ることになるじゃない」
「でも、あんた一人でやるよりも早く終わるよ」
 咲蘭は小さく「でも」と言うと、唇を噛み締めてしまった。
 おそらく彼女は部下に残業をやらせたくなかったのだろう。「こんな環境のところに長くいてほしくない」ということを咎めるたびに言う。気持ちはわからないでもない。むしろ、分かる。
 看守の仕事内容を見りゃあ、誰だってそう感じるだろうよ。
 死体からゴミまで処理をする処理部に続いて、転職したくない部ランキング栄光の2位が看守だ。精神を病ましてしまう人が年々増えている。つい先ほどまで元気だった看守が、数時間後に死体で発見される、という話も珍しくない。
 咲蘭はそういう形で、二度と部下を失いたくないのだろう。部下を失いたくない気持ちはわかる。わかるが、感心は出来ない。
「最近、朱子さんの様子がおかしいのよ」
 咎める前に咲蘭は話だしてしまう。
 あかねさん……。はて、誰だったか。
「書類を書いていると思ったら、いきなり泣き始めてね。どうしたの、って聞いてたら、字がうまく書けなくて情けないなあ、駄目だなあって思ってたら、涙がでてきたんだって。お薬を飲んだら、ちょっとはよくなったみたいだけど。飲んでからは副作用なのか、何を話しかけてもぼうっとしながら頷くだけで……」
 そう言ってため息をついた。
「きっと、精神がまいちゃったのね。そんな子に無理やり仕事を押し付けられるわけないでしょ」
 咲蘭は花束を机の隅に置いて、ペンを握った。仕事に戻るつもりなんだろう。
 確かに、これはやばい。ああ、いや、あかねって子はどうでもいい。もう首釣って死んでるかもしれないし。そんなことより咲蘭が心配だ。そもそもこんな残虐な仕事が出来るほど、彼女は強くない。たまたま生き残ってしまっただけで。偶然が彼女を生かしているだけで。
 そして偶然が彼女を生かしているなら、同時に、彼女が簡単に死んでしまうことも認めなければならない。そんなことを考え始めたら、頭がズキズキ痛み出す。ぼんやりと彼女が死んでしまう光景を頭で描いただけでこうなるなら、本当に失ったらどうなってしまうんだろう。答えは絶対に知りたくない。
「いや。でも、駄目だよ」
「駄目って?」
 咲蘭はもう書類に向かっていた。わたしの表情を見ようとすらしない。
 わたしは焦りを覚え、
「あかねちゃん? のことばかり考えて、咲蘭は自分のこと考えてないじゃん。駄目だよ。せっかくの誕生日なんだよ。たまには仕事も部下も全部忘れて遊んだ方がいいって。うん、やっぱり真面目すぎるんだよ、お前は。そんなことばっかり考えて、お前まで駄目になったらどうするんだ。お酒でも、ホテルでも、なんでも付き合うからさ。息抜きしたほうがいいって。絶対」
 と、早口で言ってしまった。
 ペンを持つ手が止まる。しかし、咲蘭は私を見てくれない。何を考えているんだろう。後ろ姿だけじゃ、何も分からない。もやもやしたものが心臓を、身体を侵食していく。見知らぬ人に銃口を突きつけられている気分だ。気持ち悪いし、恐ろしい。
「ありがとう、なつほ」
 咲蘭はゆっくり呟いた。柔らかく名前を呼ばれ、ドキリとする。
「でも、だめ。だめなの。だってほら……この書類、明日の朝までに提出しないといけないから。駄目なのよ。今日やらないと」
 そう言われると、返す言葉が無くなってしまう。なんて卑怯なんだろう。仕事を盾にされたら、「やるな」って言えなくなってしまうじゃないか。そんな泥臭いズルさに苛つきを覚える度に、惚れ込んでしまう自分がいる。本当、ズルい。卑怯だ。
「じゃあ、明日。明日の夜。わたしの誕生日プレゼント代わりに、一晩付き合ってよ」
「あ……。そっか。私の次は夏帆の誕生日だったわね」
 少し驚いたような顔を見せてくれる。素直に嬉しかった。
「そうだよ。プレゼントのお返し、ちゃんとしてよね」
「なら、お花を……」
「花なんていらないよ。咲蘭がほしい」
 言ってみてから、案外愛の告白ぽかったと気づく。だけど咲蘭は「自分がいらないものをプレゼントするだなんて」とクスクス笑っていた。やっぱり、鈍感なだけなのかもしれない。
「夏帆の誕生日なら仕方ないわね」
 ため息をついていた咲蘭が一瞬幻に思えるほど、気楽に笑いかけてくる。居酒屋で酒を飲むという意味で「一晩付き合って」と言ったのだけど、もしもわたしが「誕生日だからお願い」と肉体関係を迫る悪いヤツだったら、彼女はどうしていたんだろう。やっぱり断るのかしらん。夏帆なんて嫌い、って二度と顔を見せてくれなくなるのかしらん。その答えも、出来れば聞きたくない。きっと数時間後、ベッドで寝ているわたしは、ムンムンと成功し性交した私達の明日を考え眠れなくなるんだろうけど、今は知ったこっちゃない。ニコニコと咲蘭に笑いかけ、邪な考えは放り投げる……姿勢だけは心がけておこう。
「咲蘭の方がいーっぱい給料貰ってんだし、ちゃんと奢ってよ」
「あら。さっきまでは奢るって言ってたのに」
「それは今日限定。もう絶対奢ってやらないから」
「えぇ? やだ。奢ってよ」
 甘い口調で言われると、反射的に「いいよ」と言いそうになってしまう。思いとどまって、
「駄目。絶対駄目!」
強く言い返す。咲蘭は目を細めて楽しそうに笑う。
咲蘭は苦笑よりも、笑い顔のほうが似合うなあ、と思いながら、私も笑ってしまった。


 ――翌日。
 処理部の人間が、死体をストレッチャーにのせて運んでいた。死体の顔には白い布が被せてあるが、すれ違い様に見た死体の手はスベスベで柔らかそうだった。若い女性が死んだのだろう。自殺かなあ。気の毒だなあ。と、考えながら咲蘭の職場に向かっていた。
 残業をしていなければ、一時間前には仕事が終わっているはずだ。寝過ぎて一時間待たせてしまったけど、多分咲蘭は仕事場にいるだろう。いなかったら家まで行けばいい。
「あ」
 ちょうど、仕事場から片瀬が出てきた。青白い顔をしている。また体調を壊したんだろうか。
 話を聞こうとしたが、一礼すると逃げるように走ってどこかに行ってしまった。追いかけようか一瞬迷ったが、下世話な気がして結局止めた。
 ドアを開けると、生臭い異臭が鼻についた。息を止めたくなったが、その思いとは裏腹に思いきり息を吐き出してしまう。
 そして深く息を吸うと、状況が先ほどよりもちゃんと理解できるようになった、気がする。ただの思い込みかもしれない。ともかく冷静沈着なわたしは、咲蘭が部下の椅子に腰掛け、さめざめと泣いている姿を受け止めようと努力してみた。しかし、うまくいかない。指先が震える。
「どうした」
 案外、声は震えなかった。けれど、冷たく聞こえたんじゃないか。泣いている人間にかける言葉じゃないだろ。と考え出すと、不安になってきた。別に私は咲蘭を責めたいわけじゃない。
「よかった、夏帆で」
 咲蘭は咲蘭で、意味が分からないことを言う。どういう意味なんだろう。
 慌てて駆け寄り、彼女の身体をつま先から頭まで観察する。ざっと見た限りじゃ、怪我はしていない。
「どこか怪我した?」
 咲蘭は頭を横に振る。怪我はしていないようだ。一先ず安心する。
「瑞彩さんには、悪いことしちゃったな」
 涙を流したまま、独り言のように小さく呟いた。
「誰か死んだの?」
「どうしてわかったの」
 正解のようだ。
「この部屋、妙に生臭いし。そんな理由でしかお前泣かないだろ」
「ごめんなさい」
「いや、責めているわけじゃ……」
「ごめんなさい……」
 そう言って、左腕の裾を軽く掴んでくる。懐かしいな、と、場に似合わずノスタルジックな気持ちになってしまった。そんなこと考えている暇はないのに。
「咲蘭は悪くないよ。誰のせいでもない。こういうのはなるようにしかならないんだ。ねぇ、外行かない? こんなところで泣いてたら、もっと悲しくなるだけだよ」
「ごめんなさい」
 そういうと、わああと泣き始めてしまった。目元を拭っているが、涙が止まることはない。そうして何回も何回も顔を擦るたびに化粧がとけていく。目の下のくまや、疲労を隠すためにし始めたらしい厚いメイクが、涙で流れていくのをみると、たまらなく胸が痛くなる。涙を流すことでしか、人前で人間らしい顔になれない人を、どうやって慰めればいいんだろう。口を開けても、言葉が見つからない。
 引き寄せて抱きしめても、私の胸でわあわあ泣くだけで、状況は変わっていない。
 こいつは、いつもそうなのだ。囚人や部下が死んだらすぐに泣く。殺した場合でも同じだ。部下の前じゃ凜々しそうに振る舞っているけど、家に帰り玄関に入った瞬間に崩れ落ちる。一晩中泣いたと思ったら、真っ赤に腫れた顔を化粧で無理やり戻して、わざとらしい笑顔を浮かべるんだ。
 いっそわたしの家に監禁して、わたし以外の人と交流させなくしたほうが、彼女は穏やかに暮らせるんじゃないか。そっちのほうが幸せになれるんじゃないか、と考えて、すぐ打ち消す。あまりにも自分勝手な想像だ。咲蘭がそんなこと望むはずがない。
 もしも。もしも望むとしたら、相手は私ではなく――。

 時計がちょうど零時を指している。5月2日がやってきた。
 泣き疲れて寝てしまった咲蘭を、彼女の家のベッドまで運び、今はビールを拝借しリビングでちょびちょび飲んでいる。呆気なく誕生日が終わってしまった。咲蘭に一度も「おめでとう」と言われなかったのが、唯一の心残りだが、こんな状況じゃ仕方ない。
「……」
 なんとなくつけた携帯ラジオからは、物悲しそうなピアノの音が流れていた。重い低音が心地よく感じるのは、今の心境とシンクロしているからかしらん。
 これでここの看守は、咲蘭、片瀬の二人だけになってしまった。上から人は流れてくるだろうけど、新人が入ってくるまでしばらくは二人きりで回すことになるんだろう。
 しかし、新人。新人か。看守の適正がある人物なんてやってくるんだろうか。例年の様子から考えるならやってこないだろう。来年の誕生日も、咲蘭が泣いて終わりかもしれないな。
 ふと、キッチンに目を向けると鮮やかな赤色が見えた。何もあんなところに飾らなくてもいいのに、と思ったが、彼女のことだから水をいれただけで面倒くさくなって置いただけなんだろう。いいや、それでも縁起が悪い。赤のチューリップじゃなくて白にすればよかった。
 これが飲み終わったら、リビングに移動させよう。そう考えながら、ビールを喉に流し込んだ。